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被災地で『炊き出し』を体験してきた【本番編】

      2014/11/13
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「被災者のためにできることは何か?」と悩んでいたときに舞い込んできた炊き出しボランティアの話。
即決で申し込んで荷造りをし早速東北道を一路北へ向かった私は、活動拠点のある盛岡市で一泊。そしていよいよ炊き出しの当日を迎えた。
初日の今日は、岩手県釜石市に向かう。釜石は新日鉄釜石が有名な製鉄業発祥の地。沿岸部が壊滅的な被害を受けている。


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天気予報は外れ、気持ちのいい朝となった。6時ごろに起床し、当日の準備や積みこみをした後、7時半には出発。運転を交代しながら山道をひたすら走る。盛岡市もそうだが、山を隔てた内陸側はほとんど何の被害もないように見受けられた。
数時間かけて、釜石市の体育館へ。

 

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男連中はハイエースからテントの部品と長テーブルをおろす。
運動会のような大きな白いテントをくみ上げ、長テーブルを設置したら、次は調理器具。料理の準備だ。
中型のプロパンガスや大型のコンロ、80センチ大の大きな鍋などをセッティングしていく。
荷おろしや荷物の移動は、30代なので腰をやられないように毎回しっかりとひざをまげて腰を下げてからの作業だ。

 

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料理は女性陣。飲食店を経営されている方などもいて、手際が良い。
提供したのは「親子丼」と「そば」。あとで分かったことだが味も相当よかった。

写真 (17)

味が本当によかったせいもあってか、被災者の方々は「おいしいおいしい」と喜んでくれた。
ゴミを整理している私に、「おいしかったよ」「ありがとう」などを声をかけてくれるお年寄りが多かった。
中学生が「おいしいっす」と言ってくれたり、ご老人がわざわざ私のところまでやってきて、深々と一礼される、という一幕もあった。

しかし、なんとなく気になったのは若い男性がいないこと。「どういうことだろう?」と思っていると、体育館のリーダー的な存在の初老の男性が話をきかせてくれた。

「本 当は若い連中に炊き出しを食べさせたいんだ。でも夜にならないと帰ってこない。2~30代の男は、浜に(打ち上げられる)遺体を確認しにいっているんだ。 (力仕事もあるので)若い人が行く必要があるし、集落の何人かでいけば、大体誰が誰か(どの遺体が誰か)わかるから」。

話をしてくれた方は、こんな体験をすることになるとは思わなかった、とおっしゃっていた。

写真 (10)

この日、私はもうひとつの避難所にも炊き出しに行った。
途中道を間違えて、小学校に行くべきところ中学校に入ってしまった。中学校は遺体安置所になっており、若い男性の手によるものと思われる汚い字で、「遺体安置所」という貼り紙が無造作に貼られてあった。

小学校では梅干一個、具のない味噌汁、小さなごはんの塊にみそをつけたもの、などだけで生活をされており、焼け石に水とはいえ、一度だけとはいえ意義のある食事を提供できたかと思った。

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(被災者の方々が食べておられた食事。すごく薄いおにぎり。みそ付き)

写真 (7)

翌日は、大船渡市で同様の炊き出しを行った。
ここでは、中学生が避難所生活を支えており、炊き出しでも協力してもらって一緒に仕事を進めた。
中学生と何か共同作業をするという経験が中学以来であり(当然だが)非常に新鮮で、彼らのまっすぐな姿勢に感じるところがあった。

ま た、実際に調理、配膳となると男手が必要なくなってくるので、私は5分ほど5人兄弟の子どもたちと遊んだりした。ひとりとても愛嬌があって、抱きついてき たりしてすごくかわいい3歳くらいの男の子がいたので、いろんな話をしていると、(本当にちょっと時間があきすぎててナゾだから教えてよ、という感じで) 「○○(男の子の名前)のお母さん何してるか知ってる?」と聞かれた。

瞬間に悟って、その子のお姉ちゃんを見ると少しふさぎこんでいて、1歳くらいの弟はおばあちゃんに背負われていた。お母さんは津波の犠牲になったようだった。

なんともいえない気持ちだったが、炊き出しを終え、最後に陸前高田市に視察へと向かった。

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(野球場が半壊し、手前は海になってしまっている様子)

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陸前高田は、何もなかった。
街があったと思しき場所に、何もない。
ほかの被災地は、ガレキの山だが、ここはガレキが奥のほうへと流されてしまい、見渡す限り何もない。学校の校庭のようなイメージだ。

誤解をおそれずに言えば、もともとの街を見たことがないこともあり、また天気がよく見渡す限りなにもないことから、スカッとしてしまっている風景とも言えてしまう光景だった(もちろん不謹慎な意味合いではなくひとつの形容として)。

釜石、大船渡、陸前高田と三市をまわって感じたのは、あまりの規模でリアリティーがなかなか感じられず現場がゴミ処理場のように見えてしまったり、車で移動したことによって東日本の沿岸が縦にすべてやられているんだということを感覚的に実感した。

被災現場は当然信号が壊れているので手信号で、そのため大体渋滞している。
「いまここでまた地震と津波が起こったら・・・」と思うと恐怖を感じた。
しかし亡くなった方のご遺体を見なかったこともあり、街の崩壊は実感したが、人の死を実感するところまではいかなかった。

いろいろなことを感じた二日間であったが、これから何をしていくべきか、どう考えるべきか、結論は出なかった。あまりのことに、正直指針が立てられない。しかしとにかく、何かできることがあれば何でもやっていこう、焼け石に水でもいいからやっていこう、と思った。

ちなみに、秒刊からの義捐金1万円を現地で手渡そうとしたら、よく考えれば当然のことだったが、被災地の避難所には募金箱がなく、渡せなかった。
ライター:水山(秒刊マンデー)
記事元:秒刊SUNDAY

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