被災地で『炊き出し』を体験してきた【準備編】
2014/11/13 SNS拡散レベル 0 128 views
「被災者のために何かしたい」と思いつつも、自分に何ができるんだろう? と悶々としながら日々募金と節電をがんばっている。そんな方も多いのではないだろうか?かく言うわたくし水山も、3月11日以来そんな日々を送っていた。仕事は一週間強のあいだ自宅待機となったが、その間テレビで被災者が家族を失って哀しむ姿を見ては毎日泣いていた。
大学の後輩がいわき市役所で働いていることもあり、何とか物資を現地に届けられないだろうか? などと考えたりもしたが、そもそも物が売っていない。
そうして震災から3週間が経ったころ、自分が所属しているボランティア団体(と言っても災害ボランティア団体ではない)から、先々週から先週にかけての岩手県釜石市・大船渡市での炊き出しボランティアの話が舞い込んできた。
「行くしかない」と思ったものの、まず頭に浮かんだのはどこかで目にした「現地で迷惑をかけるボランティアは被災地に行ってはいけない」という情報だ。
「自分は現地で迷惑をかけるだろうか?」と考えたときに、かけそうな気がする……と一瞬ひるんだ。しかし学生時代ずっと什器(じゅうき)やマネキンの搬入搬出のアルバイトをしていたので、何かしら役立てるだろうと思い急いで参加申し込み。・電池・懐中電灯・iPhoneの電池式充電器・缶詰、カロリーメイト・貼るカイロ・着替え・マスク・すべり止め付き軍手・タオル・カッパ、傘・水・十徳ナイフ・ビニール袋・絆創膏・ガムテープ・目薬などをリュックに詰め込み、数日間は他人に迷惑をなるべくかけずある程度は自己完結型で生き延びられるであろう装備を用意をした。秒刊が被災地に届ける義捐金1万円もしっかり準備。
雨に備えたパーカー(帽子代わり)などをはじめとして服は4重、5重に着込んだ。多目の現金も持った。そしていよいよ集合場所へ。さっそくハイエースなどに・大型のコンロ・中型のプロパンガス・巨大な鍋や寸胴・割り箸・使い捨て用食器・集会用テント・自分たちの食糧・台車・カップラーメンなどの非常食・下着・防寒着・ナプキンなどを詰め込む。メンバーは総勢10名前後。3台の車に分乗して、首都高・東北道を一路北へ。私が運転したのはこちらの車。いったん初日の目的地は岩手県盛岡市。ここを拠点に翌日は釜石市、翌々日は大船渡市で、2日間に渡って親子丼、そば、バナナとおやつなどの炊き出しを行う。運転は3人での交代制。運転がない時間帯は仮眠をとる。途中福島を通過する際には、何とも言えない気持ちになった。福島を過ぎた頃から、東北道のアスファルトの隆起が目立ってくる。速い速度だと車がボン! と浮き上がるような感じだ。沿道の家々は、屋根の瓦が落ち、ところどころブルーシートなどがかけられている。サービスエリアには「がんばろう日本」「緊急救援車両」などの文字が貼られた数々の車と作業着姿の人たちも多い。明らかに自分とは違って筋骨隆々で役立ちそう、頼もしそうな人たちばかりだった。自衛隊の隊員やこういうボランティアの人たちを目にすると勇気がわいてくる。し かし、勢い込んでボランティアを志願したくせに、恥ずかしいことに被災地が近づいてくるにつれて段々恐怖心が頭をもたげてきた。それは仮に被災地の(避難 場所ではなく)被災現場にいる際に余震が起きて再度津波が来たときに、特に逃げる場所がない場合がある、ということが分かったからだ。しかしまわりのメンバーはあまり気にしていない様子。私は、やはり無策で現地入りして万一のことがあったらそれは準備不足による二次災害というものだろうと思い、運転の休み時間で津波の発生から到達にかかる時間(当然だが震源が近ければ早い)や、有効な逃げ方(遠くより高く)などを調べ頭に入れつつ北上した。盛岡に着くと、雪が降ってきた。翌日と翌々日の天気予報でも天候は崩れる見込みだ。立ち込める暗雲と北国ならではの寒波、現地入りへの恐怖、そして明日への意気込みなどで武者震いがした初日の夜であった。(続きます)ライター:水山(秒刊マンデー)
記事元:秒刊SUNDAY
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